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書評的省察:井上達夫のリベラリズムと向き合う

 

2003/12/18

橋本努

 

 

(以下のエッセイは、20031213日の東京法哲学研究会における私のレジュメに加筆・修正したものです。当日の内容は、井上達夫氏の近著をめぐる合評会であり、コメンテイターは亀本洋氏と私でした。)

 

 

0.はじめに

 現代の社会哲学・社会思想を語る上で、おそらく井上達夫ほど重要な思想家はいないであろう。リベラリズムの刷新によって、コミュニタリアニズムや熟議民主主義などの諸思想を自らの体系に取りこむというその独創的な思想は、いまや現代社会における「普遍」として君臨するイデオロギーであるかのようにみえる。この思想はしかし、どこにその首頚骨をもつのだろうか。この思想によって包摂されない別の可能性は、どこにあるのだろうか。

以下では、井上達夫著『普遍の再生』および『現代の貧困』において詳述された井上流リベラリズムの思想を、自生化主義ないし成長論的自由主義と私が呼ぶ立場の観点から、検討していきたい。また併せて最後に、同著『法という企て』についても若干の検討を加えたい。

 

 

 

1.『普遍の再生』について

 

1−1.「普遍」とは何か

 「一般」や「抽象」といった概念と比べると、「普遍」の概念は、力への意志を肯定したり否定したりする場面で用いられる用語である。(「普遍を操る権力の恣意と、普遍を殺す知性の恣意。現代を支配する両者は同根である。力への深き欲動である。」(本書の表紙に引用された言葉より))

一つには、「力への意志(他者への配慮なきエゴの拡張、全能感希求)」を去勢するものとしての「普遍」がある。個人や集団のエゴにもとづく全能感希求は、他者への配慮という意味での正義の視線を持ちあわせていない。これに対して普遍とは、この場合、他者の全能感や苦しみに対する配慮の視線と実践とによって、自らの行為の制約条件を反省的に捉え返すことを意味する。すなわち、「力の意志(エゴの欲動)」に制約をかける「他者配慮の正義」である。

もう一つには、人々の「力への意志(全能感希求)」を、「配慮的正義」によって制約するのではなく、何らかの装置によって、集合的に表現することが「普遍」であると考えもこともできる。階層的に編成された集団組織は、諸個人の全能感を一つの全体へと包摂して飼いならす。平和運動などに見られる諸個人の共振空間の創設もまた、諸個人の全能感を一つの全体へと包摂する。この場合の普遍とは、諸個人の包摂可能性の追求を意味するだろう。例えば、世界平和、地球市民、グローバルな正義、人権などの理想によって行為を統制するとき、普遍は、「共有された力への意志」として実現される。理念としての「包摂的主体」は、これを希求する。(もっともここでいう「全体」なる組織が、他の組織と比べてどれだけ普遍的な妥当性をもつのか、という問題は残るが、可能性としての包摂的普遍は、定義上、限界を持たない。)

第三に、各人・各集団の多元的な全能感希求を増殖・生成させる制度装置としての「普遍」というものを考えることができる。市場秩序、言語感覚、法の支配、情報インフラなどの装置を利用して、より豊穣な複数性を実現していくための「普遍」である。この意味での普遍は、包摂からの絶えざる逸脱や闘争を奨励し、善き生の複数性を集合目標としつつ、逸脱的な生それ自体を善き生の一部とみなし、マルティテュードの欲動を肯定しながら「多元的な善き生」を積極的に推進する。この場合の「普遍」とは、「力への意志」を制約したり弱体化させたりするような社会的諸環境に抗して、社会全体が多元的な「力への意志」の発現(全能感希求)を支援することを求める理念である。

以上、三つの種類の普遍概念を挙げた。すなわち、配慮的正義、包摂可能性、多元的な全能感の追求、である。このうち、第一のものは、全能感(力への意志)に制約をかけるが、第二・第三のものは、力への意志を高次化・多元化して肯定しようとする。それは恣意的ではないという意味で「普遍」を標榜する意志であるが、自己を超えた最終審級としての普遍ではなく、むしろ自己の拡張を方向づける審級としてある。

いずれにせよ、これら三つの普遍の追求は、完遂することはありえない。どの企ても具体的場面に即して実現される普遍であって、一般化された抽象的普遍を実現することはない。普遍は、具体的・個別的に追求しうるとしても、その完遂は可能性に留まる。

 本書のいう「普遍」は、第一と第三の意味での普遍であると解釈することができる。すなわち、「力への意志」を制約する配慮的正義としての普遍と、「力への意志」を多元的に増殖させる企てとしての普遍である。このうち、本書の強調点は、第一の普遍にあるだろう。本書が掲げる「自己の恣意の絶えざる批判的吟味を迫る理念」としての「普遍」とは、「力への意志」を制約する理由に関わる理念である。それは、力の暴走を食い止める「歯止めの論理」を自己の最終審級に据える、という考え方を示している。しかし「普遍」理念のコアを第三の意味で捉えるならば、それは力への意志に歯止めをかける論理ではなく、全能感希求の多元的な複殖を促す装置(理念)としての意味をもつ。自生化主義(と私が呼ぶ立場)は、この第三の意味での普遍を重視する。

 井上の立場は、第一の普遍(配慮的正義)を掲げて諸個人や諸集団のエゴイズムを制約すれば、第三の普遍(多元的な善き生の複殖)が自生的に開花するだろう、と期待する点に特徴をもつ。以下に見るように、天皇制の廃止や会社主義への制約などの議論は、この種の期待を示している。しかし自生化主義の立場は、この種の楽観的期待を共有しない。すなわち、第一の普遍は第三の普遍を必ずしも導かない、と考える。

 

 

1−2.「普遍」の要請について

 あらゆる国家は、国際社会における自らの権力行使において、単一基準という意味での普遍を標榜していない。むしろ事情に応じて個別に対処することが国際政治の常道である。しかし、例えばアメリカの場合、イスラム原理主義独裁体制たるサウジアラビアとの関係が問題となる。石油の安定確保のためにサウジアラビアの権威主義的独裁政権を親米政権として承認するのかどうか。オサマ・ビン・ラディンが提起している重要な問題は、アメリカとサウジアラビアのねじれた関係である。アメリカにとって普遍的な帝国政策の目標は、中東諸国の独裁政権を擁護せずに(二重基準を設けないで)、石油を安定的に確保することにある。現在アメリカは、サウジアラビアとの関係を見直す一方で、イラクに親米民主政権を打ち建てようとしている。が、はたして外交上の二重基準を破棄して「普遍性」を獲得するために、アメリカは中東諸国に対して民主主義という価値の普遍性を要求すべきなのか。本書はこの点に触れていないが、「普遍」の問題として、中東諸国の民主化を積極的に支持するかどうかが問われよう。

 

 

1−3.戦争責任問題について

 戦争責任をめぐって、本書は次のように主張している。

「日本国民に対する戦争責任はアジアに対する侵略責任を前提とせずには倫理的に成立しない。」「第一に、侵略責任の問題を棚上げにして、国民が払った犠牲の回避可能性だけを理由に、戦争責任を追及することはできない。」(23)「…自己の対アジア戦争責任を否定・無視するならば、自己および同胞が払った犠牲に対する、天皇および戦争責任者など支配層の戦争責任を追及できなくなる。」(24)

つまり、日本政府は、自国民に対する戦争責任を論じる前に、アジアに対する侵略責任を認めて、天皇を含めた支配層の戦争責任を追及すべきだ、というのである。

 これに対して加藤典洋は、アジアに対する日本の侵略責任を認めつつも、アジアの人々に対して誠実な謝罪を遂行するためには、まず、国民の精神的主体性と人格的同一性を回復する必要があると主張している。集合的記憶をもった国民主体を形成すること(正史のなかに戦死者追悼の位置を与えること)が、戦争責任を果たすための現実的条件であると考えるのである。しかし井上は、こうした集合的記憶の再構成が、かえって戦争責任を曖昧化する要因になる、と批判する。なぜなら、戦死者を追悼することは、戦死者たちを「正史の中で見殺しにされた被害者」と見なすことになり、それは、私たちの「自己肯定欲求」や「自己免罪欲求」を生成することに結びつくからである。

 問題は、自己肯定欲求(集団的自己同一化の充足)というものが、どの程度まで戦争責任を問うための条件とみなさなければならないのか、という点にあるだろう。あるタイプの人は、自己を蔑む力を集合的な自己同一性希求へと反転させ、その肯定欲の充足と承認願望から、はじめて対外戦争責任を認める気になるかもしれない。加藤の論点は、日本国という集団主義への自己同一化希求を満たさなければ、私たちは対外戦争責任を遂行することができない、とみる点にある。こうした集団主義的想定は、確かに現実的かもしれないが、しかしたとえそれが戦争責任を認めることに結びついたとしても、リベラリズムが理想とする「逞しい個人」の担い手を生み出さない。集合的な自己同一性の希求は、逞しき個人主義を弱体化させてしまうからである。

リベラリズムの観点からすれば、戦争責任の問題は、責任を追及する私たちの世代の規範的理想として、逞しい個人主義を陶冶する方向で問われるべきだ、ということになろう。戦争責任の問題は、戦争加担者たちの道義的・政治的責任を確定するだけでなく、その責任を問う私たちが目指す「人間像」と社会の理想の問題と不可分である。そして本書の立場は、天皇の戦争責任として、謝罪と退位を要求するが、それは人々の集団主義的な「力への意志(全能感希求)」を制約するという関心に基づいている。すなわち、先に述べた「配慮的正義としての普遍」によって、戦争責任の問題を明確に認識することを目指している。

しかし、普遍なるものを上述した自生化主義の観点から捉えるならば、天皇の責任問題は、人々の多元的な善き生を促す方向で問われなければならない。具体的には、戦争責任の問題は、天皇の謝罪と退位に加えて、諸価値の闘争的な切磋琢磨を促すために、「天皇制」を民営化することで、天皇自らが、政府から自由な価値主張を行えるように図ることでなければならない。この問題については、以下の2-2において、さらに考察を続けたい。(『現代の貧困』における「天皇制を問う視角」と議論が重なるため。)

 

 

1−4.アジア的価値論とリベラル・デモクラシーについて

 ここでアジア的と呼ばれるテーマは、実はどの国の歴史においても生じる問題を扱っている。

第一に、「経済的成長が政治的自由保障に優先する」という開発主義の問題がある。開発主義は、政治的自由や民主主義実践をすべて否定するのではなく、これらの要求を開発の理念に資するかぎりで位置づける。ゆきすぎた開発主義は、開発の不経済と民主化の未成熟がもつ潜在的コストゆえに、失敗するかもしれない。しかし問題は、経済と政治のどちらをどれだけ優先するか、という問題に、リベラル・デモクラシーの理念は共有された基準を持っていないということであろう。本書の議論も、「開発主義の暴走」のみを否定している。

第二に、後発国や保守化した先進国が、人権や公正といった普遍的理念を「歴史的文脈主義」の名の下に退けるという問題がある。問題は、共同体主義のエネルギーを、保守主義や権威主義に向けるのではなく、参加型民主主義と政治的自由の保障へ方向づけることが可能であるかどうか、である。本書の立場(107)は、歴史的文脈主義が隠蔽する「搾取や抑圧の現実への感受性を養う」という対抗戦略として「普遍的理念」を援用する。

ここで次のように解釈してみよう。「搾取や抑圧に対する批判」から普遍なるものが内発的に生じるのであれば、そこでは「解放」の理念が、「普遍」の追求を先導する。人権概念と搾取概念を比べた場合、「人権」は疎遠で外生的な理念に留まるのに対して、「搾取」は、人間の内的感情に訴える基準を提供する。おそらく、普遍を再生するための実践的な企ては、外生的な普遍を内発的な普遍へと転換すべく、「人権」を「搾取」概念を経由して読みかえることであろう。そしてまた、自由を「搾取や抑圧からの解放」として解釈する必要がある。リベラリズムとは、この意味で「人間の解放(積極的自由)」を積極的に掲げる思想であると言うことができる。私はこの立場をリベラリズムの一形態として支持するが、しかし井上流のリベラリズムの立場からすれば、「解放としての自由」は、デモクラシーの思想に含まれる要素である。

第三に、個人権の尊重が共同性を破壊するのではないか、という広く共有された疑念がある。これに対して本書は、個人権のリベラルな保障は、むしろ、多面的で開放的な共同性を豊かにするという。しかしここで疑問が沸く。はたして個人権は、開かれた共同性を豊かにするという価値目標に照らして保障されるべきものなのだろうか。また、たんなる「開かれた人間関係」を超えた「開かれた共同性」のイメージはどのようなものか。

第四に、ここでは、リベラリズムとデモクラシーの二つの要求が、うまく重なるように追求されるべきだとされているが、これら二つの思想的緊張関係は、ここでは問題化されていない。(ただし第一章では、「私は、民主主義の美質の賞揚より、その限界の自覚を重視する古臭いリベラリズムに惚れた人間の一人である」(59)と述べられている。)市民的・政治的自由は、リベラリズムによって積極的に肯定されるが、しかしその自由の有効利用を社会的に実現・陶冶する思想は「デモクラシー」であるだろう。(なお本書のここでの議論は、デモクラシーは開発主義の暴走を防ぐために要請されており、デモクラシーそれ自体の暴走は問題となっていない。)自生化主義は、この「自由の有効利用」というデモクラシーの目標を、成長論的自由主義の要素として読みかえる。

 

 

 

1−5.個人、中間集団、国家、グローバル社会という四つのレベルについて

 ここでは、個人の自律、中間集団の文化的豊穣性と多元性の促進、国家の機能(安全保障と民主的熟議)の強化、グローバル社会の健全な運営(超大国の覇権を制約して小国やマイナーな文化の政治的地位を支援すること)、という四つの価値をいかにして調整するか、ということが問題となっている。本書の第三章から第五章までの議論は、基本的に、これら四つの価値をすり合わせるための、重層的な秩序像を描くことを目的としている。バランスの取れた描写になっているが、しかし固有の視点を欠いているようにみえる。むしろ、他の視点から描かれる規範理論の制約を一つ一つ指摘していく、という手法で書かれている。ある意味で、普遍主義的なリベラリズムとは、諸観点が拮抗する場合のメタ規制理念である。それはバランス感覚の思想(暴走に歯止めをかける思想)ということなのかもしれない。

 これに対して自生化主義は、暴走に歯止めをかけるという側面(第一の普遍)よりも、国際公共財が十分に供給されていないという点に関心を寄せる。国際社会におけるバランス感覚よりも、むしろ、さまざまな投企(プロジェクト)を自生化するような制度条件について考察することが、第三の意味での「普遍」(すなわち多元的な善き生と全能感希求の複殖)に相応しいと考える。

 

 

1−6.フェミニズムとリベラリズムについて

 「多文化主義がリベラリズムを〈同化〉による抑圧の合理化装置として批判するのに対し、フェミニズムは後者を〈差異化〉による抑圧の合理化装置として批判する。」(213)

 これに対して「多元性を開く普遍」の思想としてのリベラリズムを考えることが、本書の課題となっている。「多元性を開く」という理念は、「ある制約を撤廃すれば自生的に多元的なものが開花する」という意味(制約撤廃による内発的発展への期待)だけでなく、もう一つの相対立する意味、すなわち、制度設計による自生化支援の企て(自生化主義と私が呼ぶ思想)という考え方を内包する。後者の見地によれば、多元性は「人工的・作為的な制度的支援によって促進されるべきもの」である。井上流の「多元性を開く普遍主義」の立場は、こうした自生化主義の考え方を併せ持っている。

 自生化主義は、しかし、いわゆる古典的リベラリズムの思想とは異質である。J.S.ミルの古典的リベラリズムは、なるほど井上が指摘するように、私的領域における女性の隷属状態を改善するための法の干渉を排除していない。またミル自身は、自らの社会実践においてフェミニストの意識を持ち合わせていた。しかし、自生化主義の立場は、社会的・道徳的な意識改革の問題を、たんに諸個人の自生的・自発的な実践に任せるのではなく、その啓発において、政府が積極的な役割を演じることを認める。(もっともミルは、教育や文化発展に対して積極的な関心を持っていたことから、自生化主義の立場を認めるかもしれない。しかし問題は、自生化主義を強調すれば、今度はその考え方が古典的リベラリズムと両立しなくなる、ということだ。)

 リベラリズムは、公私の境界をつねに吟味する「問題に開かれた態度」をとるとしても、しかし、「公的なものは政治的であり正当化が必要である」と考えるのに対して、「私的なものは非政治的だ」と見なす傾向にある。(プライヴァシーの権利は、それが政治的に行使されるかぎり、公的なものだと見なされる。)古典的なリベラリズムは、私的なものを非政治的なものとみなすかぎり、公私の間のボーダー領域における社会運動(善として掲げる可能性それ自体を政治的に表現するという社会問題化の実践)というものを、自らの思想の中に取り込んでいないのかもしれない。

多元的な善を促進するという関心を持った自生化主義は、「公私二元論にかんする公平としての普遍化可能性」を求める前に、公私二元論そのものを「絶えざる問題化に晒す」ような制度を志向する。すなわちこの理念は、「新たな善となる可能性がある」という期待と希望に開かれた社会制度を支援しようとする。フェミニズムが投げかける問題は、単に自明の差別・抑圧を解消するという実践ではなく、自明でない事柄の社会問題化そのものなのではないか。政治問題化の可能性を「理」によって決めるリベラリズム(227-228)に対して、自生化主義は、政治問題化や社会問題化の過程が人間の解放という意味での自由に結びつくことを強調する。リベラリズムは、正当化と決定(問題に対する一定の解決)を与える思想であるのに対して、自生化主義は、問題の問題化とその過程に関わる思想である。例えば代理母問題について言えば、リベラリズムは、その行為が、そのコストを転化させられる側から見ても公平かどうかという基準(公共的正当化)によって判断するが、これに対して自生化主義は、その行為がどれだけ新たな善の可能性を持ちうるのかという成長論的投企の観点から判断しようとする。つまりある政策が、より善き社会のためにさらなる問題化実践を促すように、判断しようとする。これは公平性に基づく公共的正当化というよりも、善き生の探求可能性に基づく公共的正当化である。

 

 

1−7.普遍の再生について

 本書の最後において、歴史的文脈主義なるものが批判されている。歴史的文脈主義は、一つには、近代の価値問題に対する応答であるとみなすことができるだろう。すなわち、一方には労働価値説の普遍性を標榜するマルクス経済学があり、他方には価値の徹底した主観性を標榜するシャックル流の近代経済学(の哲学)があって、この二つは共通して、歴史的文脈なるものが価値判断の準拠点を供給することに懐疑の視線を向けてきた。(なおウェーバーの歴史主義批判も同様である。)これに対して、すでに失われかけた歴史的文脈を掘り起こすような解釈によって価値判断の準拠点を創造するという立場(ラディカルであると同時に保守であるような立場)は、ポスト近代的状況において、近代の経済学や社会科学が見失った準拠点を提供している。もちろん、いかなる歴史的文脈主義も、諸解釈の闘争に巻き込まれる可能性がある以上、自らの主張を説得するために、何らかの普遍化可能性を志向しつつ、妥当性の要求をはからなければならない。

本書もまた、こうした考え方を重視しており、「内発的普遍主義」という言葉によって、一定の文脈から出発する立場を共有している。内発的普遍主義とは、文脈内的な意味理解や正当化の可能性根拠・規制理念として、普遍への志向が不可欠であるとする視点のことである。具体的には、(1)「人権」や「民主主義」といった普遍的原理の受容、(2)多元主義の促進(少数派に対する一定の優遇措置)、(3)規範原理の再構成(解釈)における普遍妥当性への志向、(4)対話における規制理念(メディアとしての真理)の保持、という四つの普遍概念が提示されている。

 以上の四つはいずれも否定されるべき理念ではないが、しかし自生化主義の観点からみると、いずれも不充分である。(1)普遍的原理は、必ずしも「内発的」に要求されるものではない。場合によっては「外注的普遍主義」の可能性も「社会の自生化」のためには必要である。(2)少数派に対する優遇は、少数派の文化に公正な生存機会を与えるためというよりも、むしろ、多文化性の積極的な促進を理念(理由)とすべきである。(3)規範原理の再構成(解釈)においては、いったいどの範囲の中で規範原理の諸解釈の単一性を要求するのか、という統合-分化の問題を考慮する必要がある。内発的普遍主義は、すでに文脈が十分に分断された状況から出発するが、しかし自生化主義は、文脈がさらに分散多極化しうる可能性に注意を払い、普遍化可能性の反対方向に、分化の可能性を探る。(4)規制理念としての真理によって正当化実践の普遍妥当性を要求するだけでなく、さらにすぐれた知識の成長を鼓舞するための切磋琢磨原理もまた必要である。したがって議論の普遍化可能性の追求は、新奇で多元的な議論の成長可能性という理念的目標のエコノミーに服さなければならない。

 まとめると、本書のいう「普遍」は、覇権の暴走とその対極にある断片化された文脈主義の低迷という、二つの事態に対する対処として掲げられている。前者に対しては歯止めの論理、後者に対しては「自閉する個人の尻をたたく」ような、開放の論理を提供している。これに対して自生化主義は、多元的増殖の促進という観点から、本書のいう普遍を制約する。比喩的に言えば、内発的普遍主義は、善き社会の条件を提供するが、自生化主義はそれを有効利用するための土壌作りと人間作りを積極的に推進する。

 ところで合評会において私は、「他頭制」に賛成するかどうか、という質問を井上氏に投げかけた。他頭制とは、例えば日産のゴーン社長のように、組織のトップを外部から呼び、その選出にあたっては内部の自律性を確保するようなシステムである。他にも例えば、大学の学長を外部から招くというケースが考えられる。井上氏の内発的普遍主義は、こうした他頭制を奨励しない。内発的な組織改革ではないからである。これに対して自生化主義は、ケースに応じて他頭制を奨励する。組織の変革は、すべて内発的である必要はないからである。多元的な生の開花という目標に照らして、最適な手段が模索されるべきであろう。

逆説的ではあるが、井上氏のいう「普遍の再生」は、どの個人も一定の文脈から内生的に出発することを前提とする以上、特定の文脈に拘束されないで普遍を志向する個人、例えば、浮遊する知識人やコスモポリタンのような人々は、なんら社会的役割を与えられていない。一定の文脈の中で普遍化を志向することと、普遍(全能感希求)をもって特定の文脈を志向すること(生成・成長させること)とはベクトルが反対である。しかしなぜ井上流リベラリズムが前者のみを肯定するのかといえば、その理由はおそらく、後者の志向は、普遍なるものへの不信と懐疑を生み出すリスクを抱えるからであろう。普遍を志向するためには、まず特定の文脈を引き受けなければならない。これはしかし、自生化主義が奨励するマルティテュード(あるいはシンボリック・アナリストやボボ)の生き方と対立する。

 

 

 

2.『現代の貧困』について

 

2−1.リベラリズムと「貧困」

 本書では、政治的リベラリズムの思想が、諸個人の「自律的な価値形成力」を活性化すると主張されている。天皇制にもとづく社会統合における内部的異質性の排除、会社主義という閉じた共同性の社会病理、利害調整的政治過程の言論的貧困。以上の三つの貧困を克服するために、リベラリズムが要請されるという。

 リベラリズムは、何が善き生のモデル(範型)となるのかについて特定しないというが、しかし、井上流のリベラリズムは、実際には「逞しい個人の生き方」をモデルとしているようにみえる。それは、多様な善き生が開花することを帰結主義的に期待する思想であり、自律的な価値形成力の貧困な諸個人を集団主義の暴政から保護するという消極的な思想に留まるものではない。

またリベラリズムは、何が「貧困な生」であるかについて、一定の共通了解が得られると考えている。すなわち、天皇制や会社に対する意識的・無意識的な承認と依存の関係(大いなる権威に対する帰依と献身的な忠誠)、および、熟議と批判の過程を持たない政治権力過程は、多様な善き生を妨げると考えている。集団主義と利害調整政治を道徳的に批判・否定するために、リベラリズムは、その対極にイメージされる「逞しい個人」の善き生を対照的に賞揚する。(あるいは賞揚しないとしても、悪しき集団主義の暴政をふさぐことで最も利益を得るのは、逞しい個人である。)これに対して例えば、一定の集団内で善き生を活性化している人々は、リベラリズムの立場からすれば、「自律的な価値形成力」がなお貧困であるとか、多様な社会的責任に対するバランス感覚を失っているのではないかと批判されることになる。「逞しき個人」にとって、リベラリズムは人生哲学たりうる。しかし「集団主義者」にとって、リベラリズムは、自らの善き生に対する制約条件(バランス感覚の規範)を意味するにすぎない。

 では、自律的な価値形成力を持たない「弱き個人」(アトミズム的個人を含む)にとってリベラリズムとは何か。それは一方では「集団主義の暴政に晒されることから身を守るための強力な思想」であるが、他方では「自律的な価値形成力」を迫る「教師」の権威であるだろう。「多様な善き生が開花する社会」の担い手たれ!という道徳的要請を迫る教育理念としてのリベラリズム。しかし本書ではこの側面が強調されていない。

 リベラリズムにはおよそ三つのフェーズがある。すなわち、逞しき個人の賞揚、過剰な集団主義の抑制、弱き個人を鍛えるための教育理念、である。弱き個人を鍛える教育理念を内包したリベラルな社会を構想しなければ、集団主義の貧困とその社会病理を有効に克服することはできない。

 ところで井上は、リベラリズムを次のように定義している。「リベラリズムの根本概念は、異質で多様な自律的人格の共生である。それは個人の自由を尊重するが、自由な個人の関係の対等化と自由の社会的条件の公平な保障を要請する平等の理念をも重視し、自由と平等とを、正義を基底にすえた共生理念によって統合する。」(23)

この定義をいかに受けとめるべきだろうか。一つの解釈として、リベラリズムは、まず異質で自律した個人を前提とした上で、人々がいかに「共生」しうるか、そして自由の社会的条件をいかに公平に確保できるか、という問題にとりくむ思想であるとみなすことができる。これに対して自生化主義は、なによりもまず、いかにして個人の異質性と多様性と自律性を促すか、またいかにして自由の有効利用(人的・社会的な潜在的資源の活性化)を促進するか、という問題に取り組む。リベラリズムは、正義を基底にすえた社会統合の理念であるが、自生化主義は、未知の成長を企てる社会的プロジェクトの理念である。本書のリベラリズムは、文化的に同質的な社会統合に対比される「普遍主義的な政治道徳上の価値原理」にもとづく統合様式を主張する(82)が、これに対して自生化主義は、文化的統合といっても、そこには異質で多様な生を触発しあうような多元主義の理念があると考える。リベラリズムは、私たちがある「原理」を持った場合に多様性が開花するとみなしているが、自生化主義はこうした楽観を共有していない。

リベラリズムと自生化主義が対立するのは、とりわけ、弱き個人を鍛える教育理念をめぐってである。例えば井上は、「リベラリズムが個人の権利を真剣に受けとめるのは、放縦な欲望追求や、公共的問題に無関心なミーイズムを奨励するためではない」(70)として、多様な生の開花と関係の豊かさを目標とする政治システムを展望しているが、放縦とミーイズムの世界から自律的人格への通路は、どのように構想されるのであろうか。ある意味で自由主義社会における教師の理想とは、生徒たちの多元的な生の開花を、配慮的・介助的教育関心に基づいて促すことである。こうした関心は、機会の利用と潜在的能力の開発をパターナルに促進するという「成長」への企図に結びつく。成長への企ては、社会の原理的統合という理念とは区別される。リベラリズムは成長の条件を提供するが、成長の企てそれ自体ではない。しかし、成長を楽観するのでなければ、リベラリズムの思想のみでは多様で自律的な人格の十全な陶冶を期待することはできない。そしてここに、リベラリズムのジレンマがあるように思われる。リベラリズムは、「多様な善き生が開花する社会」を目指しながら、その目標が多くの人々によって追求されていないような社会を許容してしまう。これは「原理による統合」を目標とするリベラリズムの不充足性を示す問題ではないだろうか。

 正義の普遍主義的要請を基底とする井上流リベラリズムは、諸々の善の要求に制約をかけるものとしての「正義」を思想的コアにおく。これに対して自生化主義は、諸々の善の要求が「よりよいもの」へと成長する可能性に開かれるように、またその可能性を追求することが社会的に奨励されるように、「成長」の理念を思想的コアにすえる。「正義」と「成長」は、どちらも特定の善から独立したメタ・レベルの善(善の追求を制約したり促進したりする善)であり、両者の要求は互いに緊張を孕みつつも、それらが同時に追求される場合にはじめて、リベラリズムのプロジェクトが十全なものになるように思われる。

なお、井上流リベラリズムは、どんな正義の特殊構想よりも正義の普遍主義的要請のほうが基底的であると主張するが、これと類比的に言って、自生化主義は、どんな成長の特殊構想よりも、成長の普遍主義的要請のほうが基底的であると考える。

 

 

2−2.天皇制について

 イギリス、デンマーク、ベルギー、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、スペインなどの民主主義国には、日本と同様に、王室がある。このうち、ノルウェーは、フリーダム・ハウス(NPO)による評価によれば、出版・放送メディアの自由の状況において、最高点であるという。ロバート・ダールはこうしたフリーダム・ハウスのデータから、民主主義の成熟度や権利・自由についての差異は、憲法システムの差異によって説明できないと述べている(『アメリカ憲法は民主的か』117頁)。この洞察を拡張して言えば、王室があるかどうかは、民主主義や自由主義の成熟度とは関係ない、ということになるだろう。

 なるほど本書が指摘するように、天皇制は、「下からの民主主義や保守運動」を活性化する場合もある。しかし問題は、天皇制が民主主義を活性化させるために有用かどうかではなく、それが保守主義に対抗するリベラリズムを制約してしまうのではないかという危惧にある。はたして天皇制は、単一の善き生を迫るような制度装置なのだろうか。それは、人々の生活の目標を画一化してしまうのだろうか。私見では、戦後の日本社会において、「自己の内奥を揺さぶるような異質な生のあり方との出会い」を回避させてきたのは、天皇制の権威にもとづく社会統合というよりも、むしろ、大量生産-大量消費という経済構造に規定された大衆的社会状況である。大衆的な社会状況は、王室を持たないアメリカにおいても見られた現象であり、個性なき群衆の生活が批判に晒されてきた。たしかに、昭和天皇が崩御されたときの自粛ムードは、「単一の善き生」を迫る不可視の権力であった。しかし同様の倫理的振舞は、多元的な生を賞揚するリベラリズムの理想的世界においても、その社交体全体の主催者が死亡した場合には自生的に生じるかもしれない。(なおアメリカにおいて「多様な生の開花」が可能になったのは、主として移民政策によるところが多いだろう。日本においても類似の「多様な生の開花」を目指すならば、天皇制の廃止よりも、移民受け入れ政策の方が効果的であるように思われる。)

 つまり、「天皇制の存続」と「多元的な生の開花」の因果関係は、必ずしも直接的なものではない。そこで論争的な問題となるのは、はたして「多元的な生の開花」をさらに推し進めるような天皇制を構想することはできるのか、という点である。草の根民主主義と天皇制の結合がありうるならば、リベラリズムと天皇制の結合もありうるだろう。

本書はこうした構想に対して否定的であり、より一般的な視点から、天皇制の問題を三つ指摘している。すなわち、(1)言論の自由や集会の自由に対する侵害、(2)天皇自身の人権、(3)多様な善き生の開花へ向けての企て、である。権利や正義という観点からは、(1)(2)が問題になる。これに対して、自生化主義の観点からは(3)が問題となる。本書は、これら三つの論点すべてに関わる実効的な判断として、天皇制の廃止(私的存在への還元)を主張している(78)。またそれだけでなく、たとえ天皇制条項が憲法から除かれたとしても、天皇の求心力の核たる同質社会的統合の問題は残る以上、そのような前制度的な精神構造たる「内なる天皇制」(115)を克服しなければ、多様な生の開花は望めないとしている。

自生化主義もまた、以上の(3)の問題に即して、天皇の民営化に賛成する。おそらく天皇と皇室の文化は、民営化によっていっそう繁栄するだろう。市場で商品化しうる資源をたくさん持っているからである。また天皇制は、日本社会全体の象徴的統合機能を代表しない場合にも、あるいはその代償として、もっと別様な社会統合の原理を引き受けるだろう。天皇制と多元主義の結合、すなわち、民営化された天皇が、会話共同体の主催者機能を引き受けるアクターとして機能する社会を構想することもできるだろう。いずれにせよ、民営化された場合の天皇制は、諸価値の闘争において覇勢を争うべきであり、そうした闘争の空間において、人々の価値意識を多様に陶冶する契機を提供することが期待されよう。自生化主義の観点からすれば、民営化後の天皇制の問題は、「内なる天皇制の克服」ではなく、「神々の闘争による価値問題の開示」に貢献するかどうかにある。(「神々の闘争」の政治理論化については、拙著『社会科学の人間学』を参照されたい。)

一例として、イギリスの王室は最近、ローリング・ストーンズのヴォーカル、ミック・ジャガーに「ナイト」の称号を与えたが、これは、王室が多元的な善き生の複殖を奨励するものとして、リベラリズムの立場から歓迎しうるものだろう。ポール・マッカートニーがナイトの称号を得たのは「国民的同質文化の創造」を祝福することに資したが、ミック・ジャガーがナイトの称号を授与されることの意味は、その同質性を犯すようなマルティテュード文化の奨励であるにちがいない。日本においても、おそらく類似のマルティテュード奨励政策が可能である。天皇制が多元主義を促進するためには、官僚や公務員に対してではなく、多様で異質な文化の複殖に貢献した人々に対してこそ、多くの高い勲等を与えるべきではないだろうか。

 

 

2−3.個人権の強化について

 健康で最低限の文化的生活を送る権利だけでなく、「労働者の社会的成熟の機会」を確保するために、あるいは、個人が職場と他の集団(家族)のあいだでバランス感覚を保ちながらそれぞれの集団に責任ある振舞を示すことができるために、本書は、個人権を強化する必要性を訴えている。すなわち、個人としての自律の感情は、集団への犠牲要求に歯止めをかけ、人間的共同性を成熟させるという。

ここで個人権は、アノミー的アトミズムを許容する方向にではなく、自律した個人からなる共同性を成熟させる方向に、いわば切り札として、要求されている。「我々の共同性が充全に開花するのは、我々が人間の共同生活の多様な平面・領域に複合的に参加し、多様な責任を引き受け遂行する資質と能力を陶冶する場合のみである。」(167)

では、豊かな共同性を育むことが下手な「弱い個人」が、中間集団の暴政に晒されることから制約される、という意味での個人権擁護論は、どのように位置づけられるのか。この種の個人権擁護論は、社会秩序の積極的な目標とされない、ということであろうか。

本書の議論は、会社組織の十全な共同性を開花させるためにも個人権擁護が必要だ、と主張しているように見えるが、会社という共同性を充全に開花させることよりも、そのような共同性をすべての成員に要求する組織運営そのものが、現在の文化的・経済的状況において、すでに通用しなくなっているのではないか。個人権の問題は、現代日本における会社組織の再編とその共同性の変容(護送船団方式と会社主義の終焉)という観点から、再検討されるべきであるように思われる。「共同性の十全な開花」というイメージを共有しなければ、個人権の切り札機能についての共通理解も得られないからである。

 

 

2−4.合意について

 ここでは、まず諸個人が自己の認識論的パラダイム(コスモロジー)を持っていて、その外部に「存在の大いなる野性」があることへの畏怖と承認が、パラダイム内の合意を超えるメタ合意への志向を促すと主張されている(185)

 しかし、人間がパラダイムの統一を欲するという最初の前提からして、私は疑問に思う。「知の地平融合」や「パラダイムの拡張志向」というレトリックは、無用な社会学的想定である。ポパーの観点から見れば、自己の存在をパラダイム(専門母体と諸例題の体系)として整序しようとする人間は、つまらない科学者である。つまらない科学者のみが、知の地平融合やパラダイムの拡張を志向するにすぎない。

合意問題の出発点に、自己をパラダイムと同一視する人間をおいて、そこから諸々のパラダイムの相互補完性について論じることは、危険である。というのも、人間は一般にパラダイムの統一を欲せず、また逞しい個人ほど、そのような統一を創造的に破壊しようとするからである。議論の出発点としては、むしろ自己の存在を、領域横断的で断片的なカオス的闘争の場として捉えることが相応しい。すなわち、自己の内部において、存在の豊穣性と真理の超越性に対する感覚を養うような個人を想定することが望ましいように思われる。真理は、諸パラダイムの相補性の認識を促すよりも、むしろ、一定の問題に対するよりよき応答の可能性(これまでの応答を捨てる可能性、したがって相補性の否定)を保持するという態度に相関している。井上流リベラリズムの担い手が自己のパラダイムを存在の豊穣性に開く主体であるとすれば、自生化主義の担い手は、自己をパラダイム化せず、自己の内部における複数の存在を拮抗させながら、豊穣な生を志向する。そこにおいて自己の「開放性」は、他者とのインターフェイスではなく、自己の存在性格のコアに関わるものである。

ところで、民主主義理解との関係で言えば、本書の立場は、民主的合意を真理の根拠とするのではなく、「少数者保護への合意」の観点から、民主主義を外在的に制約する原理として真理を位置づけている。しかしここで主張される真理の機能は、その哲学的理解と民主主義理解の関係において、説得的に接合されているのだろうか。井上は、諸個人がパラダイムの統一を欲するという想定から出発して、民主的合意(コンセンサス)を諸パラダイムの地平融合として位置づけているようにみえる。しかし、この合意がもたらしうる政治的暴力を制約するために、「存在の大いなる野生」としての「少数者の権利」を位置づけ、そしてその保護のために、合意された内容に対する制約をあらかじめ取り決めることを「メタ合意」するような制度を考える。そしてこの「メタ合意」の可能性を「真理」の規制機能に結び付けているようにみえる。

 この議論は、しかし、諸パラダイムの地平融合や拡張を導くための「真理」という当初の想定に反するのではないだろうか。地平融合による民主的合意を促したり規制したりする理念こそが、当初の想定では「真理」ではなかったのか。この議論は、「少数者保護への合意」という「民主主義のメタ合意」がすでに取り決められている点で、真理の理念を合意説に基礎づけているようにみえる。

これに対して自生化主義は、そもそも地平融合としてのコンセンサスを、真理概念によって根拠づけようとしない。また自生化主義は、民主制における少数者保護というメタ合意に真理の機能を固定するのではなく、諸価値の闘争化と闘争的な討議を促す制度において、はじめて規制理念としての真理が有効に機能すると考える。自生化主義は、こうした真理観から、民主主義を合意の形成過程として捉えるのではなく、むしろ、人々の潜在的能力の活性化という意味での「民主」=民衆のエンパワメントを考える。

 また本書は、反映的民主主義と批判的民主主義を対比して論じているが、自生化主義の観点からは、これに加えて、第三の民主主義としての「闘争的民主主義」という類型を考えることができる。その理念は、「支配の流動化」と「存在論的志向に基づく闘争の原理」であり、そのプロセスは、「闘争的な討議」と「人間解放の可能性の政治的表現」をもつ。主体の理念としては、「潜在的能力の実現主体」、「代表者の闘争責任」、「参加の本質としての全能性」を掲げる。最後に制度としては、「神々の闘争の表現」、「標準統治制度の制限と標準化されない政治実践の活性化」、「多元性の促進のための少数者保護」、「政治過程における少数者問題の活性化」を提案する。合意をラディカルに疑い、規制理念としての真理を適切に位置づけるのは、批判的民主主義ではなく、闘争的民主主義である。

 

 

 

3.『法という企て』について

 (以下では、第一部と第四部のみを検討する。)

 

3−1.第一部「法理念論」について

 (1)本書は、命令ないし命法と規範との根本的相違として、後者が「指図に還元されない一定の理由」をもつと主張する。そして、法を規範の一種として位置づける(7-9)。しかし問題は、理由をどの程度まで考慮するか、また、どの程度まで権威や権力の役割を認めるか、という点にあるのではないか。命令にせよ規範にせよ、指図と理由の両側面を持っている。指図の量が少ないほうが規範だとは言えないのと同様に、理由が少ないほうが命令だとは言えない。(法の支配の理念的規制論は、理由のある命令(国家介入)を法の支配と両立するものとみなすだろう。)

 (2)本書のいう「正義の普遍的構想論」は、特定の正義構想が最善のものであることを示そうとする。では本書のいう「正義の理念的規制論」(普遍主義的要請としての正義を掲げる立場)は、単に「多様な正義構想がまさに正義の構想と言えるための条件を設定する」(18)だけに留まるのだろうか。それとも、より善き正義構想に向けて、諸構想の中からさらに普遍主義的なものを志向するような「規制」理念たりうるのだろうか。もし、正義の理念的規制論が、特定の正義構想を「よりよい」ものとして選択できなければ、それは文脈的構想論を否定したり制約することができない。問題は、ある特定の正義構想から別の正義構想へと移る場合に、それを導くのは「理念的規制論」なのか、それとも特定の「文脈的構想論」なのか、あるいはいずれでもなく、特定のイデオロギーや思想(リベラリズムなど)なのか、という点にあるだろう。そしてリベラリズムの思想は、これら三つの局面すべてに関わるような特徴を持つようにみえる。

 (3)なお、ここで「普遍」という用語は、「差別しない」という一般的な要請の意味で用いられている。ただし「集団的エゴイズム」の排除という点で、「普遍」は「力への意志」への制約を明確に示している。

 (4)フリーライダー問題について(18-19)。「ただ乗り」が定義において「不正」であるという理解は、はたして適切であろうか。経済学的でいう「フリーライダー」問題は、コストの問題であり、最初からフリーライダーを「不正者」と決め付けていない。なぜフリーライダーが普遍的に不正な人間と見なされるのだろうか。

 (5)リバタリアニズム批判に関する問題で、はたして本書は、ロック的付帯条件のすべてを普遍化可能性の基準として承認しているのだろうか(22)

 (6)「反転可能性」の問題について、政府がアクターとして振舞う社会においては、政府の観点と個人の観点の「反転可能性」もまた正義の判断基準を提供するのだろうか(23)

 (7)正義の普遍主義的要請が魅力的であるのは、現代社会においてはどの文脈も完全に閉じたものではありえず、判断の根拠を内部で充足することができない、という点を指摘しているからであろう。しかし、この場合の「普遍主義」は、差別を排除する理念であるとしても、区別を促す理念ではない。「対象に応じて正義の判断をいかに区別することが普遍的か」という問題に対する理念的規制は、はたしてあるのだろうか。

 (8)「法の支配」の二つのモデルについて(67)。まず、弱い解釈と強い解釈を区別するメルクマールは、組織的強盗のケースを認めるかどうかにある。強い解釈はこれを認めないので、「正当化の実践」に強調点を置いているが、しかし、いかなる正義構想が望ましいのかについては、なお中立的である。なるほど「強い解釈」モデルは、よりすぐれた「法の支配」を探求することに開かれている。そこで次のように言えるだろうか。すなわち、「よりよき法の支配をあらゆるチャンネルから探求する社会こそが、すぐれた法の支配を実現している社会である」と。この命題は「正義のメタ構想」として、正義の普遍主義的要請から導かれるようにみえる。

つまり、本書における「正義の概念」と「正義の構想」の区別の間には、実は「正義のメタ構想」というものが位置づけられている。「メタ構想」とは、正義の特殊構想が内発的によりよく成長するための過程に関わるものであり、それはすでに、制度の中に組み込まれていなければならない。

 

 

3−2.第四部「法動態論(2)」について

 (1)パターナリズムの問題(207-)は、国家が個人を甘やかすという局面とは別に、国家が大いなる主体となって個人を「主体化」するという局面の問題がある。そしてリベラリズムは、パターナルな主体化(隷属化)を一般に受け入れるように見える。すなわち、放縦なミーイズムよりも多元的で自律した人格の尊厳を掲げるリベラリズムは、自律への国家介入を認めるようにみえる。

 (2)メディアと公共性をめぐって(212-)。はたして国家は、情報のレレヴァンスについての共通基準(文化的価値の多様性と公共的問題の知識の必要性)をどこまで確定する必要があるのか。またその情報を、どのチャンネルや媒体によって伝達することが望ましいのか。さらに、この問題に対する応答の指針は、はたしてリベラリズムによって与えられるのだろうか。分権化による市場競争の促進という「自由の有効利用」が情報公共財の供給をうまく遂行する、という考え方は、「自由を有効利用させる」という自生化主義(あるいは成長論的自由主義)の理念であって、正義を基底とするリベラリズムの思想理念には含まれていないように見える。

 (3)公正競争について。マイクロソフト社の「抱き合わせ販売」は、競争の妨害という点で、明らかに不正であるだろう。しかし例えばIT産業において、国家が競争を促進したり育成したりすることは「正義」にかなうだろうか。なるほど本書が言うように、「勝者と敗者の地位が絶えずダイナミックに転変し、誰も永続的な勝利の約束を得られない一方、誰も永続的な敗者の烙印を押されない社会」というものを、われわれは「公正な競争社会」と見なすことができる。しかし、そのような社会の理想は、一定の国家介入によって(あるいはルールの絶えざる変更によって)実現するのではないか。またその場合、公正な競争の理想とは、「勝者と敗者の反転可能性」という意味での「正義」だけでなく、「ダイナミックな成長」という共通価値への合意に根ざしているのではないか。すなわち、公正とはこの場合、正義と成長の両方の関数になっているのではないか。

すでに競争が激化しているところでは、公正としての正義が「歯止めの論理」として重視されるだろうが、反対に、競争が未成熟なところでは、成長やダイナミズムへの企図が重視されよう。本書249頁では、経済社会の「発展的活力」を失わせることが「不正」であるとみなされているが、ここでは、「不正」の判断基準が「正義」というよりも「成長」であることが示されているように見える。(別のところで本書は「ダイナミックな通時的平等を促進する場として市場競争を再定義する」(261)と述べており、これは、動態的社会変化そのものを公正の基準に据えることを意味している。これに「成長」を加えれば、自生化主義の理念に適っている。)

 理念的規制論にもとづく正義論や、正義の普遍主義的要請論は、一見するとハイエク的な市場秩序論を共有するように見えるが、しかしそれは、ハイエクよりもいっそう介入主義的な産業政策を許容する。市場のダイナミズムがそれ自体として公正(ないし善)であるとすれば、それは市場の自生化のための人為的介入を認めうるからである。自生化主義は、ハイエクの自生的秩序論を、作為的・介入主義的な方向に再解釈するものであり、この点において井上氏のリベラリズムと通底する。とりわけ、階層間移動のダイナミズムを促すべきだという目標をおく点で、両者は共通のプロジェクトだといえる。

 

 

 

参考1:書評

井上達夫著『普遍の再生』岩波書店2003.7.刊行(「週刊読書人」2003.10.31., 4.

 

八〇年代の思想潮流がポストモダンの「軽快な知的遠心力」に支えられたとすれば、現代の思想潮流は、新保守主義やナショナリズムなどの「強い道徳的求心力」をもった言説へと旋回を遂げている。しかしポスト近代の諸思想は、どれも論理において息が短い。現代人は哲学的思考や自己批判を回避して、自らの存在をまったき肯定の文脈に位置付けるという「力への欲動」を抱いているのではあるまいか。本書はそうした現代の思想状況と対峙しつつ、批判的な知性の復権を呼びかける警鐘の書だ。戦争責任論、アジア的価値論、ナショナリズム、多文化主義、フェミニズム、歴史的文脈主義といった思想を具体的素材としつつ、それぞれの問題に対して真摯な応答が試みられる。

戦争責任をめぐって著者は、アジアに対する侵略責任の問題を棚上げにして天皇および戦争指導者たちの戦争責任を追及することはできないと主張する。日本はアメリカと戦って中国を争奪されたのではなく、まさに中国を侵略したのであるから、その犠牲者たちに責任を負うのは当然である。しかしなぜ多くの日本人がその責任を認めようとしないのかと言えば、それは人々の利己的な自己肯定欲にあるという。この集団的利己主義に制御をかける「批判的認識」こそ、自身の病理を克服する手段であると著者は訴える。

欧米中心主義に抗するアジア的共同体主義に対しては、アジアが単一の価値に基づかないこと、欧米における自由民主主義の歴史と実践を聖化する必要はないこと、自国固有の文化という基準によって隠蔽される価値に感受性をもつべきこと、アジアにおける個人主義の豊かな伝統を認識すべきこと、などが指摘される。国民国家論をめぐっては、四つのテキストを読み解くかたちで諸問題が整理されており、とりわけベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』に対する手厳しい批判が光る。多文化主義に関しては、この思想が局面次第でナショナリズムやリベラリズムと結合したり反発し合うという論理的関係が、丹念に解明されている。そして文化の自由市場におけるマイノリティ支援や、マイノリティ文化に属する子供の教育機会の公的確保が、リベラリズムの立場から要請されることが示される。また、私的領域を放置するリベラリズムを批判する現代のフェミニズムに対して著者は、リベラリズムが「女性の自己決定権としてのプライヴァシーの権利」を政治問題化しうることを強調している。プライヴァシーは私秘的なものではなく、自律を促すべき政治領域たりうる、というわけである。

最終章では、「内発的普遍主義」の哲学が展開される。諸文脈に感応しながら普遍化可能な論理を創造していく知の批判的営みこそ、規範原理の最適化に必要である――これが本書の柱となる提言だ。この主張はおそらく、ロールズのリベラリズムや共同体主義の論客たちが総じて肯定する「歴史的文脈主義」に対して、大きな批判的威力をもつものであろう。なるほど世の中には、対話力を欠くが文章力に長けた哲学者たちが、自らの穴倉を確保するために普遍主義の行き過ぎを制約しようと思案している。これに対してその閉塞的エゴを打破する論理を提供しようというのが、井上流リベラリズムの企てに他ならない。対話力を鍛えるために、本書は格好の素材となるであろう。

橋本努(北海道大学助教授・専攻 政治哲学・経済思想)

 

 

参考2:

拙稿「自由主義の構想力A」『評論』日本経済評論社1999.4.no.112より抜粋

 

……(井上達夫)氏の人間学の第一は、「解釈的自律性」をもった主体をリベラリズムの基礎として練り上げることである。もともと共同体論の側からの提出された「自己解釈的存在」の理念は、しかし特定の共同体に従属するものではなく、その自省作用を通じて既成の共同体を分裂・分化させ、伝統を多元的に増殖させる力をもっている。氏はそのような個人を「逞しきリベラリズム」の担い手として位置づけ、「自己の生の指導的価値」を自らの責任において解釈していく存在を称揚する。

  しかしそのような自己解釈存在が「逞しい」リベラリズムの担い手となりうるのは、共同体から脱してゆくような解釈局面においてのみではないだろうか。強い自省は強い共同性につながることもある。したがって特定の局面を取り出してみれば、自己解釈的存在は、共同体主義を豊穣化する基礎にもなる。問題は、解釈の性質が伝統を豊穣なものにするとしても、そこに分裂・分化による多元的増殖をみるのか、あるいは再創造による伝統の複合的統一をみるのか、という点にあるだろう。「自己の生の指導的価値」にしても、それが一定の共同体の内部において特定のザッヘに仕えることであるという事態も十分に考えられる。そのような人間は、強い自省性と個人性を我がものとしているが、共同体を分化させるほどの逞しさはない。その場合、共同体が分裂・分化によって複殖するのは意図せざる結果であって、自らの逞しさの結果ではない。そこで私の第一の疑問は、自己解釈的存在は果たして「逞しきリベラリズム」の人間的基礎として充分なものか、という点にある。

  もう一つの論点は、「他者への自由」という表題理念に関わる。氏のリベラリズムは、自己の絶対化衝動をはらむ自由を抑制する原理として、「自己を脱中心化する試練を与える師」としての他者を要請する。「師」としての他者は、自我の偏狭な檻を破ってくれると同時に、安心立命をも砕き去り、不安と攪乱に陥れる存在である。そのような他者を自己超越の契機として受け入れるとき、各人は自由を鍛え上げることができるという。

  しかしここで鍛え上げられるべき自由とは何であろうか。それは、再び高次の「生の指導的価値」である自己中心性を得ることか。それとも自己中心性を脱却して自己内分裂を引き受けることか。あるいは自己を相対化する可能性を組み込むことであろうか。

  いずれにせよ氏のいう他者理念は、正義の基底性を正当化するために必要な限りにおいてであれば、人格上の成長を活発に促進するものではない。しかし自己を攪乱する他者がまさに「師」でありうるのは、自己が成長することを師と共に期待できる限りにおいてであり、この点において井上氏のリベラリズムは、「成長」を共通理念とする自由主義へと踏み出していることを積極的に認めるべきではないか。またその場合、諸個人は成長への共同投企を企てるときにはじめて逞しさを身につけるのではないか。……

 

(なお東京法哲学研究会における合評会では、上記の「井上氏のリベラリズムは、「成長」を共通理念とする自由主義へと踏み出していることを積極的に認めるべきではないか」という点(山田八千子氏の質問)について、井上氏からこれを認めるという応答があった。ということはしかし、私の掲げる自生化主義もいずれ包摂されてしまうのだろうか。)